街探検・東北大学植物園・仙台城二の丸跡の「蒙古の碑」

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仙台市内の「蒙古の碑」を巡る、3回目は仙台城の二の丸跡の蒙古の碑です。現在は東北大学植物園(青葉山植物園)の中になっているので植物園に入って行きましょう。

川内キャンパスの西側に植物園本館があります。この辺は藩政時代には仙台城二の丸だった場所です。

入園料230円を払って中に入り、展示室を通って外に出ると芝生広場の先に鬱蒼とした森が広がっていました。森の中は山道になっています。

森の入り口に「天然記念物 青葉山」と書かれた石碑が建っていて、その横には植物園の説明板が置かれていました。それによると植物園は仙台城の御裏林と言われた丘陵の一部で、築城以来みだりに人の手が加えられなかったため自然な状態の林が保存されていて学術上価値が高く、昭和47年(1972)に天然記念物に指定されたそうです。そんな中に仙台城築城以前の「蒙古の碑」が残されているんですね。

広大な林の中で迷わないように、至る所に地図が設置されています。地図右下の赤丸の1が現在地で、そのすぐ上に「残月亭跡」「蒙古の碑」と書かれていました。入り口から近い場所にあるみたいですね。山道を登って行きましょう。

道の途中には地図のほかに「動物へのあいさつ」と書かれた鐘も置かれていました。たまにクマが出没することがあるとうことでしょうか。

山道を登って行くとメインの道から外れた場所に2基の石碑が建っているのが見えました。

仙台城二の丸跡の「蒙古の碑」です。それぞれ年号が刻まれていることから、左の小さい方が「弘安の碑」で右の大きい方が「正安の碑」と呼ばれています。

説明板がありました。それによると

「これらの板碑は鎌倉時代のもので、左は弘安十年(1287)に陸奥守と号した人の供養のため、右は正安四年(1302)に四十余人の講衆が縁者の霊を弔うために建立したものです。建立年代が蒙古襲来(1274・1281)に続いているので「蒙古高句麗の碑」と呼ばれてきました。江戸時代になると、信仰の移り変わりからこれらの板碑は子供の百日咳を治す霊験があると言われ信仰されました。」

と書かれていました。石碑の内容は蒙古襲来とは無関係のようで、年代が近いために蒙古の碑と呼ばれていたようですね。

「弘安の碑」は1メートル位の高さで不思議な形をしています。よく見ると表面に文字や梵字のようなものが見えました。当時の陸奥守の供養のために建てられたそうです。

「正安の碑」は高さ2メートル近くはありそうで地震で倒れなかったのかなと思うほどの若干不安定な感じで立っていました。こちらは亡くなった縁者を弔うため40数人の講衆が建てた碑です。

仙台市内の他の「蒙古の碑」のように蒙古襲来の時に生き残った蒙古兵が逃れてきたというような伝説は無いようですが、この場所に最初から2基並んで建っていたのか、仙台城が出来た後も、そのまま残されていたのか等々、説明板だけでは謎が残っているので色々調べたくなってきますね。地図を見ると、すぐ近くに仙台城の遺構「残月亭跡」があるようなので行ってみましょう。

蒙古の碑から山道を登ると、少し広くなっている場所がありました。「残月亭跡」です。説明板によると、五代藩主伊達吉村が宝永七年(1710)に建築した茶室で「御物見亭」とも呼ばれた建物があったそうです。

「蒙古の碑」が今の場所に昔からあったのだとすれば、歴代の藩主も見ただろうし政宗公も見た可能性がありますよね。仙台城が出来た頃には、すでに遠い昔の時代のものになっていた石碑を一体どんな思いで見ていたんでしょうね。