街探検・滝前丁の「モクリコクリの碑」

SNSフォローボタン

フォローする

青葉区八幡の来迎寺に、ちょっと不思議な名前の石碑があるというので見てきました。

作並街道(旧国道48号)大崎八幡宮の西側すぐの丁字路を南に曲がり、滝前丁と呼ばれる坂道を下って行くと牛越橋の手前に来迎寺があります。

黒い板塀に囲まれた来迎寺は歴史は古いですが、本堂は新しく建て替えられているようですね。

寺の門前に辻標がありました。来迎寺前の通り「滝前丁」と寺の前から東へ延びる「北五十人町」の町名が書かれていました。その名の通りに滝前丁の西側には広瀬川へと流れ落ちる滝があり、広瀬川の対岸には三居沢不動尊の滝もあります。東側の町には旗本御足軽五十人衆を住まわせて西の守りに就かせていたので北五十人町という名前になったそうです。

来迎寺の門前には仙台市教育委員会による「モクリコクリの碑」の説明板も設置されていました。それによると

「モクリコクリの碑と称されている板碑(供養塔)がありました。弘安10年(1287)と延元2年(1337)のもので、現在は前者が所在不明になっています。もともとこの付近にありましたが、道路拡幅工事で移動され、現在は来迎寺境内に建っています。モクリ・コクリとは蒙古・高麗のことともいわれ、市内にある蒙古の碑と称されるものの一つです。弘安の板碑は表面が風化し、またこの碑の粉が百日咳に効くという言い伝えがあったことから、長年にわたって削られ、碑文は不明瞭であったようです。」

と書かれていました。2基あった碑のうち、現在は延元の碑が1基だけあるようですね。境内に入ってみましょう。

境内に入ると正面にありました。思ったよりも小さい石碑で50㎝か60㎝くらいの大きさでしょうか。雨除けの屋根で守られていて造花が添えられていました。

ここにも仙台市教育委員会の説明文がありました。碑文が書かれていますが、どういう内容なのかは専門家じゃないので良くわかりませんね。最初の「苦人求佛恵」は「苦しむ人は仏の恵みを求める」という意味でしょうか?

実際の石碑は表面が所々摩耗していて文字が見えにくくなっていました。一説によると鎌倉時代にモンゴル帝国が日本に攻めてきた「元寇」の時に奥州まで逃げ延びてきた蒙古人3人を祀ったという伝説があるそうです。当時の日本人にとって蒙古人の襲来はとても恐ろしいものだったらしく、「モクリコクリ」は妖怪の名前にまでなっています。

実は、仙台市内には「蒙古の碑」と呼ばれている石碑が数ヵ所に存在しています。たまたま元寇の時の年号が書かれていたから蒙古と関連付けられたものや、実際に蒙古人が逃げてきたという話が残っているものなど色々あるので、次回から街探検では実際にそれぞれの石碑に行ってみたいと思います。

※参考文献
古田義弘「仙台城下の町名由来と町割り」本の森
河北新報出版センター著、出版「忘れかけの街・仙台」